アメリカ体験記③ ラフマニノフと蛍と友人
朝5時。
モォォォォォ〜!!
「今の、何の音?」「聞こえた?」
隣の広すぎる農場に放牧されている、大量の牛が移動する地響きと鳴き声で私たちは起こされる。
お返しとばかりに、「ライラック」寮の女子たちで
「スリー、トゥー、ワン!」
「モォォォォォォォ!!!!!」とやり返す。
牛は何も聞こえなかったかのように、えんえんと草を食べ続けている。
そんな風に7月が始まり、シマリスが練習室の周りを追いかけっこしていたり、シカが静かに小屋のそばで練習を聞いていたりした。
7月3日には、自主的にラフマニノフのチェロソナタのリハーサルを始めた。
私はこの曲が大好きである。
何度でも弾きたい。
正直なところ、ピアノコンチェルトよりも好きだ。
将来への不安や、郷愁、桜の散るような場面、川の流れ、普遍的なもの、変わりゆくもの、愛情が散りばめられ、ラフマニノフらしさに溢れている。
1回目の合わせで、何も違和感がなく、ひたすら音楽を楽しめたのはこれが初めての経験だった。
あぁ、すごい室内楽パートナーに出会えた、という第一印象だった。
チェリストは、本当に素晴らしかった。
彼は私より5歳も若く、いわゆる天才肌である。
ほとんど練習せずとも、もうそこに完璧なテクニックや音程と、音楽性が完成されているのである。
とは言っても、小さい頃に血が滲むような努力をしたのだろうけれど。
彼の名前はジェリー。
サンフランシスコに住んでいる中国人である。
彼の演奏は若さに溢れていて、いつも「もっとセクシーに弾きたい」と言っていた……。
その晩、生まれて初めて、私は蛍を見た。
小さな小さな光が、森の中でほのかに点滅していた。
この週、初めて私はアレクサンダーテクニックも学んだ。
このテクニックは考え方や意識を高めることを目ざすもので、結果として演奏が楽になるのだ。
指の生えているところから動かす意識でいると指を動かしにくく、手のひらから生えていると思うと動かしやすい。
こういった基礎的なことを、英語でもう一度、頭と身体に刻み込める、大切な機会だった。
一方、ヴァイオリストのスージャンと私はチャイコフスキーのトリオを自主的に楽しむために弾き始めた。
チェロは、メキシコから来た子が参加してくれた。
初見で合わせてみたり、アルゲリッチとミッシャマイスキー、ギドンクレーメルの素晴らしい音源を一緒に聴いたりした。
(iTunesの中に見つからなかったので、アシュケナージの素晴らしい音源をどうぞ。)
いつか、スージャンとこの曲を一緒に弾くことが、今の私の大きな目標であり、困難に直面した時の支えでもある。
お互い困ったことがあればなんでも話し合い、助け合える友人だった。
スージャンと一緒にいられた期間はこのたった2か月だったものの、友達とは 一緒にいる時間の長さではなく、どこにいても、何をしていても、ただ変わらず友達で居続けてくれるものなのだと、教わった気がする。
アメリカから帰ってきて2年経った今も、変わらず連絡を取り合っている仲である。
ひたすら前に進み続ける彼女を、心から尊敬している。
つづく