再び日本へ
(乗り継ぎ地のモスクワで、各国首脳のマトリューシカの前を通り過ぎた。)
震災以来だ、と思う。
2月に学期休みで日本へ一時帰国していたときは、ちょうどダイアモンド・プリンセス号のニュースが流れていた頃だった。
様々な諸外国が、中国・韓国・日本の入国制限を始める中、祈る思いでドイツへ再入国できたのもつかの間、3月19日、私はまた日本へ舞い戻ることになった。
ドイツでの今回の滞在は、2011年の春を思い起こさせた。
人々の気配が減っていき、保存できる食材も手に入りづらくなった。
(写真はスーパーのパスタコーナーにて)
ドイツでは西の方から徐々にコロナ危機が始まった。
他人事だったはずのウィルスがだんだんと街に侵入し、現実味を帯びてきた。
(外出禁止となったイタリア、フランスのニュースの後、旧東ドイツでも買い占めが始まった。)
最初は私の在留する州の感染者数がたった1人で安心していたものの、日を追うごとに20人、40人、100人と増えていく…。
人々のパニックが伝染し、店という店からトイレットペーパーまでもが姿を消した。
(街のドラッグストアから姿を完全に消したトイレットペーパー。)
日本への帰国直前、私は同じ町に住む方々に呼び掛けて、家に余っているトイレットペーパーをおすそ分けしたほどだった。
受け渡すことのできた方は、「3人のルームシェアなのに、もう1ロールしかない」、「もう職場に2ロールしかない」などとおっしゃっていた……。
新学期が始まる直前に、私の通う学校が閉鎖を決定した。
ドイツ全土において、5月始めくらいまで、ひとまずは休校措置となった。
もちろん全てのコンサートは中止、5人以上の集まりは罰金だ。
唯一の頼みの綱だった練習室も侵入禁止になった。
(練習室のある校舎の玄関扉。生徒が勝手に侵入して練習できないように、完全にロックされた。)
今住んでいるドイツの家にはピアノがなく、いつも学校で練習していた。
2か月もピアノに触れられないという状況は、絶望的である。
ピアニストであるためにドイツへ来たのだ。
これほどの長い期間ピアノに触らなければ、自分が何者なのか、アイデンティティーを完全に失ってしまうに等しかった。
信頼できる何人かの友人に相談した。
伴奏を担当しているゲヴァントハウスのアカデミー生は、自分のサイレントピアノを家まで運んであげる、と言ってくれた。
とある友人の学校はまだ練習室が開放されていて、来るなら2ヶ月くらい自分のところに泊まってもいいよ、とまで言ってくれた…。
(なお、現在は完全に閉館されている。)
同じ学校の日本人ピアニストたちは、すでに全員帰国していた。
韓国人たちは、「戻ってしまったら、今度はドイツに帰れないよ! ハルカ、君はドイツに残らないとだめだ!」と説得してきた。
私は混乱していた。
そんな中、刻一刻とドイツと日本の発令が変わっていき、現状の厳しさは増していく。
今日本へ帰らなければ、フライトまでもが運休になる。
迷っている間にもドイツの感染は1万人をあっという間に超えて行き、このパンデミックを抑えられるのか分からない状況だった。
卒業試験をどうしても受けたい生徒たちの伴奏が残っていたものの、ドイツに居ても練習できなければ、本末転倒である。
迫り来るタイムリミットの中で真剣に悩んだ挙句、私は日本へ戻ることを決めた。
前回の一時帰国から、たった1ヶ月弱でまた見る故郷だ。
大幅な減便によるフライトの少なさに対し、突然の帰国を余儀なくされる多くの人々。
1分おきに値段が上昇する航空券の予約に手が震えた。
経つ直前、ライプツィヒの静かな街を歩いた。
嵐の前の静けさとは、このことなのだろうか。
(3月中旬の聖トーマス教会前にて。迫り来るコロナ危機がまるで嘘のように、穏やかな春の日差しがそこにはあった。)
まるで今すぐに完全帰国をしなければならないような、切ない気持ちに浸った。
色々なことがあった。
良い成果や美しい思い出の裏には、それを上回る苦悩と孤独と悔しさが詰まっている。
そんな苦難の思い出に溢れた街であっても、不本意に離れるその心境は、こんなにも名残惜しいものなのかと悟った。
もうここは自分が腰を据え、精一杯生きている拠点なのだと実感したのだった。
(ウィルス感染が起こらなければ、美しい春を迎えるところだった。)
帰りの道中、20時間ほどの予定だった帰路は、乗り継ぎに失敗したことにより、50時間となる。
(空港での行列。この数分後、前後の人と1.5メートルの距離を取るようにとの指示を受ける。)
ここ、ベルリンのシューネフェルト空港では、故国へ帰る人々の長蛇の列に並ぶことになった。
宗教上や習慣の違いでマスクをしたがらない欧米人やロシア人でさえも、マスクをしている人がちらほらと出始めた。
(乗り継ぎのモスクワにて。欠航の赤い文字が並んでいる。)
中国へ向かう便には、全員が全身、白い防菌服に身を包んで搭乗していった。
その光景は、今まで目に見えなかったコロナウィルスの恐怖を具現化し、差し迫ったものに感じさせた—―
それから10日ほど経ち、ようやく成田空港では本格的に帰国する人々への検査が始まった。
まもなく私の自宅待機期間も終了する……。